「人生はどれだけ呼吸をし続けるかで決まるのではない どれだけ心のふるえる瞬間があるかだ」
2011年に展覧会「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今蘇る復興の夢とビジョン」が森美術館で開催された。
1960年代に未来の都市像を思い描き、新しい思想を生み出した建築運動「メタボリズム」。これらの作品に、既視感があった。
手塚治虫「火の鳥」(1954年連載開始)、藤子・F・不二雄「ドラえもん」(1969年連載開始)。二つの漫画に見られる、21世紀以降の未来都市だ。車道は空へと伸び、住居は高層化している。すべてがオートメーション化されていて、人は身体にぴったりと馴染んだ未来的な服装をまとう「近未来」の光景。
21世紀に入っても、「近未来」は実現しなかった。私たちは、祖父母の代が憧れた言葉に逆説的なノスタルジーさえ感じる。
展示された未来都市は、戦後復興から高度経済成長、人口増加のただ中にあった日本で、建築家たちが描いたビジョンだった。彼らが「近未来」に抱いた野心の中身とはなにか。

実現しなかった「メタボリズム」都市計画。それでも思想として生き続ける。
「メタボリズム」は「新陳代謝」という意味だ。人の生命活動に関わるその言葉を、なぜ運動の冠につけたのだろうか。
建築物は単独で存在することはない。都市のシステムに関わるパーツとして数えられる。当時、人と建築物、ライフラインを内包する都市は、ひとつの生命体と考えられた。人間が新陳代謝を繰り返すように、技術革新によって古いパーツは淘汰され、新しいものに替わる。
神奈川県川崎市の武蔵小杉駅周辺を例に挙げるとわかりやすいだろう。元々工業地帯だった駅周辺は、2010年横須賀線の駅が開業することをきっかけに、開発が進んだ。今ではタワーマンションが立ち並び、駅には商業施設がオープンし、街が賑わっている。このように人と建築物、ライフラインが更新されると、都市は成長を続ける。
建築運動「メタボリズム」の思想は、建築物が群を成す都市計画まで広げられた。
DVDに収録されているドキュメンテーション、丹下健三「東京計画1960」がある。ここでは緻密な都市データに基づいた都市改革提案が掲げられた。
同計画では、高度成長期の急激な人口増加を懸念し、東京湾に巨大な「線形並行射状」の人工地盤建設を提案する。中心部に都政や企業を移し、交通網と住宅環境を周囲に整わせ、心臓から血や神経が手足に渡るようにスムーズな都市機能を図ろうとした。
奇しくも展覧会開催当時、2011年は東日本大震災が発生した。展覧会の構想は現代にも通ずるものとして鑑賞者の心に届く。
本編で語られるものは、昭和の漫画で感じられる、過去のノスタルジーに浸るものではない。メタボリストのひとり、黒川紀章は「作られた建築物よりも、思想の寿命ははるかに長い」と自著「メタボリズム方法論-思索と創造の軌跡」(同文書院)で述べた。

現代のアナログからデジタル空間に乗り換えて
現代人は今後、どのような未来都市を描くのだろうか。西暦2619年を舞台とした、火星への移住計画を描く漫画「テラフォーマーズ」(集英社)を見てみたい。2巻の冒頭に描かれたタイ王国中央部は、現代の光景とさほど変わりがない。本作では超人たちが異星人に闘いを挑めるまでのIT・科学技術が発達していた。これは今の流れを汲んでのものだろう。
現代の漫画を取り上げて「思想や夢がない」と批判するつもりはない。
「メタボリズム」発足当初は、第二次世界大戦の戦禍の記憶が色濃く残っているときだ。バラックからの再生が課題だが、彼らは、元に戻す以上の希望を描き出した。
しかし、シンポジウム「メタボリストが語るメタボリズム」(2011年)で槙文彦氏が語った「ジャンルを超えて共にしていた」時代精神は、現代では持ちえないのかもしれない。つまり「みんなで共に良い国をつくろう」と時代を乗り越えようとした意志・目的の共有だ。
なぜなら都市が新陳代謝を急速に繰り返し、成熟してしまったからだ。その成熟を支えたのは新たなライフライン、IT技術だ。
槙氏が語った時代精神は、戦後復興という一種の国家プロジェクトがあったからではないだろうか。精神的なものに一般人は参加できても、率いるのは専門家による議論だ。
今では特別な事案がなくとも、一般の人もそれぞれの思想を、インターネットで個別にアウトプットしている。記憶に新しい、ブログ「保育園落ちた日本死ね!!」での匿名意見は、衆院予算会議の議題にも挙がった。
スカイハウスで繰り広げられた熱い議論は、今インターネットに場所を変え、プロ、アマチュア問わず24時間、世界中で交わされている。
これから現代人に必要なのは、情報のメタボリズム
先述のシンポジウムにて、1960年当時、30代前後を中心に構成されていたことが明かされる。30といえば、筆者と同世代だ。
モデレーター内藤廣(建築家)は「(今の30代)大丈夫ですかね?何とかなりそうですか?」と笑って観衆に問いかけた。今の30代が大志や情熱をもって生きているかという問いかけだろう。大きなお世話だと感じたが、その言葉に内心どきりとした。
現代はインターネットの恩恵を受け、情報更新、入手のスピードは上がった。より人が思想できる時間は増えたように思える。果たして本当にそうだろうか?
アメリカのコメディアン ジョージ・カーリンが唱えた「この時代に生きる私たちの矛盾」がある。一部を引用したい。
「ビルは空高くなったが 人の気は短くなり
高速道路は広くなったが 視野は狭くなり
お金は使ってはいるが 得る物は少なく
たくさん物を買っているが 楽しみは少なくなってきている」
「たくさん書いているが 学びはせず
情報を手に入れ 多くのコンピューターを用意しているのに
コミュニケーションはどんどん減っている」
時代の流れを受けて、都市は、世界は新陳代謝を繰り返す。しかし体内に取り入れたものは、真に成長を助けるものなのだろうか。
過去に焼け野原を前にして、人を想い活動した人々がいた。人が人であるために、人は人のために思考すべきだろう。そのために何を取り込むか、何を吐き出すのか。現代人はより細かな取捨選択に迫られる。
私たちは情報の新陳代謝を繰り返し、小さな曲がり角を見つけて、やっと情熱を見つけるのだろう。大志を抱けなくてもいい、ただ心が震える瞬間を見極め、自身を費やしたい。